君の名前を忘れない

行ったトコ、食べたもの。写真置き場。か、もしくは存在証明。Yahoo!ブログから引っ越してきました

出雲弥生の森 長文注意

書庫追加しました。
なんか作ったつもりでしたが作ってなかったんですね。
過去の記事もこちらの書庫へと随時移していきます。
鍾乳洞もアップしたいのですが、とりあえず鉄は熱いうちに打て、ということで、覚書的に今日の博物館の話を……
ちょっと自慢入りますが(爆)、だってうれしかったんだもん!
 
でも興味ない方には本当にどうでもいい話が大半だと思うので、スルーしてください……orz
 
さて、今日は当初の予定通り、出雲へと出かけてきました。
 
朝6:15に家を出て、高速経由でひたすら出雲へ。
二時間少しで斐川に到着、荒神谷遺跡の大賀ハスを楽しんだ後、弥生の森へと行ってきました。
 
弥生の森博物館は今年の4月にオープン。
大津の西谷墳墓群に隣接しています。で、この前NHKの番組が弥生の墳墓だったので見ていたら、なんと恩師がここのロゴのポロシャツを着て出ている……
到着して聞いたところ、なんと館長先生でした(笑)
私は大学在学中に、西谷3号墓の発掘にかかわっていて、その時に先生にはお世話になったんです。
(専攻生ではありませんでした。あしからず……)
 
ということで、今日の出雲行……
 
今日から企画展が始まる、ということで関係者の方やプレス関係の方も。
 
常設展の方から回り、企画展へと。恩師は企画展の方に詰めていたのですが、私が企画展の方に回った時にはちょうど手すきだったようで
「先生、あのジオラマ、すごいですね……凄すぎますよ~(笑)」と言った所……
 
「そうなんだよ、あれは凝りに凝ったんだよ、ちょっと語りたいんだけど、つきあってくれるかい?」
「もちろんですよ、っていうか喜んで。私も聞きたいし語りたいです
ということで、常設展に逆戻り。
展示してあるジオラマについて、およそ30分ほど語り倒しました。
 
イメージ 1
 
私の一番のツボだった、見張りのお兄ちゃん。
墓上祭祀の主催者が赤の服なんですが、このお兄ちゃんは、裾で見張り兼お客様の案内係をやってるんですが、お客さん来なくて暇だったんですかね、大あくび(笑)
 
以下、先生の「こだわりポイント」を羅列します。
「もし」行かれることがあるようでしたら、館長のこだわり、ということで、注目していただけると幸いです。
 
「これはね、当時の同時代の――魏志倭人伝とか、その他の同時代の遺跡とか、そういうものを駆使して、できる限りリアルに再現したんだよ。服装もね、当時の人形とか記述とかで、女性は貫頭衣を中心に、で、織物ってのはもう幅が30cmって決まっててね、それは当時の折り機の限界だったみたいなんだけど、それを巻くような形なんだな」
「で、男は刺青、女も顔に魔よけのペインティングをしていてね、髪型なんかも数少ないけど当時の人形とかあって、それに合わせてるんだよ。女の人は三つ編みみたいに編んでね、男は……どうやってたかわからない――ちょんまげじゃないみたいなんだけど、頭の中央は盛り上がってるんだよ(ウルフモヒカンみたいなシルエットでした)」
 
「で、この模型はね、祭祀の様子だけど、越からの人物、吉備からの人物、その他山陰からの人物で色を分けてあるんだけど、ま、当時そんな風に色が分かれていたわけじゃないんだよ、もちろん、ただね、このくらいの色は当時の染色技術でも十分に出たってことは証明されていて、で、みんながちぐはぐに着てても分かりにくいから、とりあえずこの上でだけは分けちゃったんだよ」(越の人は黄緑、吉備は青、山陰は黄色、主催者が赤、祭祀の参加者が白)
 
イメージ 2
 
これがその部分。左側の緑が「越からのお客様」、右半分が「吉備からのお客様」です。
吉備のお客様は特殊器台を運び込んでおられる所です。で、赤い服の人(主催者側)がお酒をふるまっています。
 
「倭の国の人はお酒を好む、っていうだろ、だからちゃんとそこまで復元してね、ほらこの人(真ん中の人)は、越からきて、吉備の特殊器台の大きさにびっくりしてるんだよ」
「一応ね、僕の顔も作ったんだよ、でも似てないんだよ(土を運んでいる労働者の中にいます)」
「上の祭祀はね、ちょうど今、第1主体の方が埋められるところでね、第3主体の方は、柱を立ててるんだけど、この柱を立てるのもね、最初出来てきたのはどうにも迫力がなくて……迫力ないって言ったらさ、こういうの作る人ってのは好きものが多いのかね、本当に作業場に柱を立てて、それ見ながら作り直したらしいよ」
「今は参列者が集まってきてね、おもてなししながら待ってるんだよ、でこの埋め戻しが完成して、上に柱が立ったら、下に待機してる人たちもこの上に上がってね、ほら、その隅だけ、石の向きが違うだろ、そこから上ることになってるんだよ」「あ、それでこのあたりで待機してるんですね」
「この何時間後かには、盛大な宴会がこの上で執り行われるわけだ」
 
「そうそう、あっちのすみっこ(あくびのお兄ちゃんの脇)に犬がいるだろ、あれは出雲柴犬。で、ここには野鳥もいるんだよ」「雉ですね」「そう、でこの白い花はわかるかい? 中国(地方)タンポポだよ。このあたりの原産のタンポポは、白かったんだよ。西洋タンポポや、関東タンポポ、関西タンポポは黄色いんだけどね。今はだからすっかり黄色いタンポポが当たり前なんだけど、当時はこのあたりは白いタンポポが当たり前だったんだよ。ただちょっとタンポポにしては……」「大きいんで、マーガレットかと思いました。なんでマーガレットがって思ってたんです」
「そうなんだよ……」
 
「ほらここのすみっこにね、こっちに歩いてくる人、これね、当時の歩き方なんだよ。今は右足を出すときは左手を出すだろ、でも当時は、右手右足だったんだよ。今の歩き方は明治に西洋の体育が入ってきて以来の週刊で、日本人は右手右足で来たんだよ。ほら、お相撲さんとかもそうやって前に進むだろ、あれは腰をひねらなくていいから、はやく進めるらしい、飛脚もそうやって走ってたらしいぜ?」
 
ちなみに上の二枚はジオラマの写真ですが、現地には墳丘墓自体が復元してあります。
イメージ 3
 
これが3号墓から見た、「復元された2号墓」です。
上のジオラマの背景に見える墳丘墓と比べていただけると、ジオラマがいかに精巧に作られているかがわかると思います。
前回訪れた時はまだ工事中でしたが、きれいになりましたね~~
 
「で、2号墓はね、3号墓のすぐあとくらいに作られてるんだけど、3号墓では出なかったガラスの腕輪が出たんだよ。だからほら、そこの衣笠の下で様子を見ているの、あれが次期王ね、ガラスの腕輪して(笑) で3号墓の葬祭を見守ってるわけだ。そうそう、そこで楽を奏でてる3人衆もね、当時にあった楽器をちゃんと持たせてるし、あ、赤の服以外にね、白い服で葬儀に出てるのも、魏志倭人伝の中に『葬儀は白い服』っていう記述があったんで、ちょっとそうしてみたんだ♪」
「この三つ編みの泣いてる女の子は3代目?」
「うん、そうかもしれない。生きていればね」
「あ、そうですね~」
 
イメージ 4
「そうだ、君、2号墓のきれいになったのは、知らないだろ」
「知らないです、二号墓ってがっつり削られてたんじゃなかったですっけ?」
「そう、ほとんど残ってなかったんだよ、で、残ってなかったのをいいことに、埋め戻してその上に実物大で再現しちゃった♪」
「え? マジですか? やりたい放題ですね」
「うん、思いっきりやっちゃったv」
「この後で行きます」
 
「中は凝ってるからな~、あ、でもすぐ消えるけど……あ、シーッ」
「消える?」
「内緒、内緒……」
「いいですけど、また出てきますよね」「何度でもw」
なんと現地には3Dで女王が葬られてました(@_@)
 
で、ジオラマ離れて……
 
「そうだ、これ、ビデオ、発掘のメイキングみたいな……撮ってたの覚えてるか? あれを……莫大な量があったんだけど、編集して流してるんだよ、君もたしかいたぞ」
……えっ! マジですか?
 
……マジでした。
 
イメージ 5
 
ちょうど埋め戻しの時で、ネコ車に土を乗せて運んでる所。
大まかに埋め戻した後、最後はみんなでネコ車一杯ずつ、土を上にかけたんですよ、みんなで拍手して、花道作って、その間を通って……その瞬間でした。
「そういえば君はこういうのを着てやってたなぁ。今見たら派手だなぁ」
「……そうですね……なんでこれだったんでしょうね?」
 
で、当時一緒に発掘をした子たちのうち、考古学研究室ではなく、私のいた研究室だった子たちの消息の話になり。懐かしい話とか。
 
で、結局1時間半ほどこの博物館にいました。
先生は現地も案内したいくらいの勢いでしたが、お忙しそうだったので、現地は一人で。
暑かったけど、写真バシャバシャ。
常設展はタダなので、行くたびに通ってしまいそうです。