弥生探訪 ※やけにマニアック(笑)
最初に書いておきます。今日の記事は……
弥生萌え炸裂。
ただ、中の写真は撮れないので、それだけが残念です・・
国宝の青銅器とかが撮れないのは仕方ないにしても、レプリカとか、その他の展示品は撮らせてほしいなぁ……
中には斐川の荒神谷の銅剣の本物とレプリカがずらっとあったりして、かなり荘厳です。
(本物は本物の迫力が。レプリカは青銅の「出来たて」の色で作ってあるので「当時の色」が。当時の人々がどんな風に銅剣を見たのかなんてことが想像できて面白いです)
(本物は本物の迫力が。レプリカは青銅の「出来たて」の色で作ってあるので「当時の色」が。当時の人々がどんな風に銅剣を見たのかなんてことが想像できて面白いです)
歴博を出て、出雲大社にお参りした後は、出雲市内を突き抜けて、西谷墳墓群へ。
ここは大学時代に発掘調査に携わった思い出の地です。
西谷は「四隅突出型墳丘墓」というちょっと変わった形。
4本足のヒトデというか、こたつみたいな形です。
上の写真は、その「足」の部分の一つ。葺き石も一部再現されています。
ここは大学時代に発掘調査に携わった思い出の地です。
西谷は「四隅突出型墳丘墓」というちょっと変わった形。
4本足のヒトデというか、こたつみたいな形です。
上の写真は、その「足」の部分の一つ。葺き石も一部再現されています。
墳丘墓の上には、埋葬施設の実物大のボードが。
こちらが第4主体(主体=埋葬施設)で、周りには柱があったことが確認されています。
(ちなみにこの上には複数の埋葬施設があって、大きなものはこれともう一つ。小さいのまで入れると十個以上です。墓一つに一人じゃないんですね、この時代は)
こちらが第4主体(主体=埋葬施設)で、周りには柱があったことが確認されています。
(ちなみにこの上には複数の埋葬施設があって、大きなものはこれともう一つ。小さいのまで入れると十個以上です。墓一つに一人じゃないんですね、この時代は)
墳丘墓の上から、東の斐伊川を望む。
今は写真で言う右上、東に川は流れて、宍道湖へと注いでますが、この墳丘墓の当時は、川は丁度この丘の裾を回りこむように、写真で言うと左手に流れを変え、日本海へと流れ込んでいたと思われています。
今は写真で言う右上、東に川は流れて、宍道湖へと注いでますが、この墳丘墓の当時は、川は丁度この丘の裾を回りこむように、写真で言うと左手に流れを変え、日本海へと流れ込んでいたと思われています。
その手前には、こんな風に祀りごとを行っていたんでしょう、という想像図と説明のボードも。
やっぱり、こういう「絵」があると分かりやすいですね。
やっぱり、こういう「絵」があると分かりやすいですね。
写真の中には柱を支えている木も再現されていますが、遺跡からは、この添え木の跡まで見つかっています。
(墳丘墓上の再現された柱には、この添え木はありませんが、あるのが正しい)
(墳丘墓上の再現された柱には、この添え木はありませんが、あるのが正しい)
西谷を出たら、斐川の荒神谷遺跡へ。
ここは有名どころですね。銅剣、銅鐸、銅矛。
出るわ出るわの……
出るわ出るわの……
銅剣出土地。
銅鐸、銅矛出土地。ちなみにどっちもレプリカです。
立ち入り禁止になっているので、あんまり近くで撮影できない……
レプリカなんだから……(以下略。)まぁ、急傾斜地なので、色々問題があるんだろうなと推察します。
レプリカなんだから……(以下略。)まぁ、急傾斜地なので、色々問題があるんだろうなと推察します。
角度を変えて、銅剣まで、思いっきり近づいてみました。
これが限界(立ち入り禁止区域には入ってませんよ)
これが限界(立ち入り禁止区域には入ってませんよ)
でも、この距離で見ると、ここの銅剣がどれだけ莫大な量だったのかというのをしみじみ感じます。
まぁそれまでに日本国内で出た量を凌ぐ量(たしかそのくらい)が一箇所で出たんですから、そりゃすごいことだっただろうなぁ……
まぁそれまでに日本国内で出た量を凌ぐ量(たしかそのくらい)が一箇所で出たんですから、そりゃすごいことだっただろうなぁ……
ちなみに泥に見えますが、これもちゃんと樹脂で固めてあるので、雨にもへっちゃら。
銅鐸もかなり緻密に作ってありますよ。
銅鐸もかなり緻密に作ってありますよ。
ただ……
土曜日なのに。
どこにも一人もいないのが、……気に……
なりました(笑)
ま、寒かったし(特に墳丘墓の上!)
地元に居ると、こんな季節に行こうなんて思わないのかも知れませんね。
さて、その後、山越えへ……
続く。