君の名前を忘れない

行ったトコ、食べたもの。写真置き場。か、もしくは存在証明。Yahoo!ブログから引っ越してきました

親子

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2011.9.12 津山市
 
今日は広島へと帰省してきました。
ちょっと前の記事でも書いたように、父が多分、そんなに長くないので。
 
病院にいたのは、ほんの一時間くらい。祖父の葬儀では、車いすだけど自分で降りようと出来てた父が、あるいはほぼ見えなかったけど「目の前に誰かがいる」くらいは見えてた父が、完全に何も見えず、寝たきりになっていました。ほんの3カ月ほど、なんですけどね。
 
本当だったら近くで介護の手伝いなどをした方が良いのかも知れない、とか。
近くに居れない自分を親不孝と感じたり。
 
それでも、やっぱり顔を見ないままに逝かれてしまっては悔いが残る気がしたので、会いに行ってきました。
この先彼がどのくらい頑張るか分からないけれど。
 
自分の死期も悟れないような人でもないと思うので、多分今の彼を生かしているのは生物的本能と、母の献身的介護に少しでも報いたいという気持ちなのでは、と思いながら帰ってきました。
 
父の母(すなわち祖母)は私の大学時代に亡くなりました。
その時、父のことをすっかり忘れてしまっていたそうで、あなたは誰ですか、と言われたそうです。
「あなたの息子の○○ですよ」と言っても、「私にはそんな息子はおりません」と言われたそうです。
それを聞いたのは、2003年の病が、一応快気になって、当時の夫と帰省した時のことでした。
 
とても切なかったし、それを教えてくれたのは母でしたが、父は母が話すのを止めもせず、苦笑しながら隣にいました。やっぱり大きくなっても子供は子供、親は親。寂しかったと思います。
 
慰める言葉もなかった。でも私にも伝えたいことがあって。
「お父さん、お父さんは病気で私のことを忘れてしまってもいいよ。でもその代わりに、お母さん(もちろん今の母のことです)のことだけは、何があっても、どんな病気をしても忘れないで。最後まで覚えてるのはお母さんのことであって」とお願いしました。
「その代り、私もお父さんのことを忘れるかも知れない。でも○○さん(当時のダンナ)のことだけは絶対に忘れないようにするから」
まさか離婚するとは思っていませんでしたが、その当時のせめてもの思いやりであり、子供のいない自分への言葉でもあり、まちがいなく本音でした。
当時の私にとっては、夫婦の絆とはそういうものであり、母へのせめてもの感謝の気持ちを込めたつもりです。
 
父が脳をわずらってから、時々記憶がおかしくなってました。
父と会うたびに(年に1度程度ですが)あのこと覚えてるかなと思ってました。
母も多分覚えてるんだと思いますが(口にはしませんが)よく「まだ私のことをわかるのよ」と言っています。
そして今日。
 
父は私を覚えていました。
「○○(私)? 元気にしとるか」と。
食事時に行ったのですが、看護婦さんの許可が出て、母が食べさせようとすると「○○のごはんは?」と。
子供がいくつになっても、「親は親」という言葉を思い出しました。忘れてもいいって言ったのにね。
 
 
父の髪は抗がん剤でかなり抜けています。
でも気づきました。今72ですが、残っている髪の毛の半分くらいは真っ黒なんです。
私の実母もその母も、かなり白髪は多い方だったと(かすかに)記憶していますが、私は白髪が今、ほとんどない。いまだに染めたこともなく、2~3カ月に一回、3面鏡を覗き込んで、気付いたのだけ抜いて、終わりです。
……ここにも、父からもらったものがあるんだなぁと。
 
私は父をそんなに好きではありません。
それは多分、もうどうしようもないのだと思う。どうしてと言われても困るし、好きでないものは好きでないとしか言いようのない感情なのです。でも、親は親なのだと。
 
そんなことを思った今日と言う一日でした。